福島警戒区域の動物たち

「幸せな死に方」とは?
(2012年5月25日 掲載)

人気のない街や野を駆ける牛たち
人気のない街や野を駆ける牛たち

 東日本大震災発生から1年になる2012年3月11日の前後6日間、レンタカーで福島県の計画的避難区域などを回った。12日には、原発から半径20キロ圏内の警戒区域の中に入ることができた。そこでたくさんの牛に会い、野生の猿の群れに出くわした。

 放射能線量計は、スイッチを入れるたびに慌ただしく鳴りつづけた。東京電力福島第一原子力発電所の建物が目と鼻の先に見えるあたりでは、車の窓を開けるとすぐに24マイクロシーベルトを表示した。
 第一原発から北へ、請戸漁港にかけて海岸沿いを走った。ところどころ建物らしき形骸が残ってはいるが、見渡すかぎりの瓦礫が原だ。陸に打ち上げられた巨大な死魚のように仰向き、横臥し、俯しているおびただしい数の車また車。共食いしたように崩れ合い、焼け焦げている車体。海から遠く離れて道路や住宅地に乗り上げた船のうち、まだ使えると判断されたのだろう、起こされた船体が地に固定されて立っている。
 車を降りて少し歩くだけで、方向感覚を失ってしまう。山側に船が姿をとどめ、海側に住宅とそこで営まれていた生活の残骸があるからだ。あちらの舳先が門を打ち破り、こちらの船尾が自転車の骨を噛み砕いている。倒れた電柱の首に電線と漁網が絡まっている。
 途方もない量の瓦礫が手つかずのまま残されてある。ただ、海岸沿いは原発に近くても放射線量は1マイクロシーベルト以下で、意外に低いところが多いようだ。
 遠景の山に目をやっていて、ふと気がつくと牛が2頭、3頭視界をさえぎり、悠然と枯れ草をはみながら林の中へ消えていった。

 全く人気のない浪江町の中心街を横切り、街はずれに来ると、また3頭の牛が猛然と駆けているのに出くわした。向こうもこちらに注目している。車を降りて近づいていくと、我々との間に一定の距離を保つように、田んぼから人家のほうへ移動する。
 殺処分(安楽死)を免れて生き延びている牛たちだ。
 5月12日に原子力災害対策本部長・内閣総理大臣菅直人から福島県知事に、「警戒区域内において生存している家畜については、当該家畜の所有者の同意を得て、当該家畜に苦痛を与えない方法(安楽死)によって処分すること」という指示が出された。
 以後、警戒区域の家畜たちは、畜舎から放たれて自ら草などを食べて生き延びるほかに生存の道は閉ざされた。
 ソ連時代のチェルノブイリでさえ、30キロ圏内の牛1万3000頭、豚3000頭が1100台のトラックで避難したといわれているのに。家畜にとっては、原発事故による放射能被曝、そして救助の無策と、二重の人災であった。
 私が昨年12月に福島県農林水産部畜産課で聞いたところでは、警戒区域にいた牛、約3500頭のうち、半数ぐらいが牛舎の中で死亡し、残り1千数百頭が放たれているのだろうということだった。
 なかには政府の安楽死指示に同意しない農家、指示に対抗して牛を飼いつづけている農家もある。

牛たちを見つめるエム牧場の村田淳さん
牛たちを見つめるエム牧場の村田淳さん

 原発から14キロ地点に浪江牧場をもつ有限会社エム牧場では、爆発事故発生後、社長の村田淳さんを中心に議論を重ね、牛たちを見捨てないことを決めた。若いスタッフには二本松市の本場などの管理を任せて、村田さんと浪江農場長の吉沢正巳さんが餌や水をやりに通いつづけてきた。政府の安楽死指示により、最後まで面倒を見るぞという「逆のスイッチ」が入ったと、村田さんは言う。
「同じ生きものなのに、てめえらだけ助かって、ずいぶん身勝手だなと。こういう仕事をしていると牛もパートナーだよね。このまま放置して撤退するかどうかを話し合ったとき、危ねえからもう行かないほうがいいという意見もあったけど、最後までやれることをやるべ、というのが結論でした」

浪江農場の牛たちの背後には、高圧線が山を越えて連なっている
浪江農場の牛たちの背後には、高圧線が山を越えて連なっている

 村田さんのように政府の指示に対抗する姿勢をはっきり打ち出していなくても、安楽死処分に同意していない農家もある。自らの生活の限界まで牛を飼いつづけた農家もある。そもそも避難の際に「すぐに戻れる」という説明を受けた人たち、数日すれば帰れると思っていた人たちが多い。また、避難が長期化するかもしれないと思いながら、家畜が近所を荒らすことを危惧して畜舎につないだままにした人たちもいる。
 牛にとって何が幸せな生き方であるか、私にはわからない。だが、浪江農場のような広々としたところで、食べるものを食べ、好きなときに水を飲んで、のびのびと育つ生活が快適であることは間違いない。村田さんは、牛にとっての「幸せな死に方」を考えている。
「命あるものはいずれ死ぬんだから、それはもう決まっていることなんだから。どういう死に方をするのが、その生きものにとって幸せなのかということを突きつめていけば、やっぱり牛にとっては屠場で本来の使命を全うするのが、いちばん幸せな死に方ですよ。不幸にして途中で病気になって死んでしまう、これは我々人間だって同じこと、これはいたしかたない、受けいれるしかない。ただ、それ以外の死は不幸だと思うよ、俺は。たとえば、殺処分とか餓死とか、不幸なことですよ。なんの意味もなく殺されること、なんでこうなっているのかわからないままに飢え苦しんで死んでいくようなことがあってはならない。浪江の牛たちを、これからもちゃんと見届けたい」

 浪江農場はいま、餓死でも殺処分でもなく、3百数十頭の牛たちが生き延びられる(それは幸せな死に方でもある)道を探りつつ、「希望の牧場・ふくしま」として新たな歩みを始めている。
 吉沢さんは、被曝して経済価値を失った家畜の命をつなぐ活動を繰り広げながら、避難を余儀なくされた農家の無念さを思いやる。
「警戒区域の中は、即非難するしかなかった。じっちゃん、ばあちゃんとか抱えていたら、牛のことなんかかまっていられない。置いて逃げるしかなかった。それは正しい選択だった。でも、エム牧場ではそうじゃなくて、やっぱり生かそうという道をとったんだよね。
 ただ、あの当時、農家のとった行動については、誰も非難なんかできないと思う。餓死させたのは農家の気持ちが折れる光景なんだけれども、殺処分に同意するということも、それもまた農家とすれば気持ちが折れることなわけ。警戒区域の牛飼いは、もう二度と牛なんか飼えないという、それぐらい精神的なショックを受けたと思うんだよね。折れたんだよ、気持ちがもう……。
 一生懸命飼ってきた畜産農家の人たちの気持ちが、ぐわーと潰されたというか、揺れたというか……。うちの中で意見が違うんだから。じっちゃんは殺せと言ってるし、嫁さんは嫌だと言って。いったん同意する判子をついたのに撤回するなんて、うちじゅうで喧嘩になっちまう。そういう思いをしながら、だんだん力尽きていって、もはやこれまでになったんだよ。
 そうやって、穴を掘って牛を埋めた所があっちこっちにある。いずれ慰霊の碑を、おれ、つくりてぇと思うんだけれど……」

病死だろうか、死んで間もない牛が横たわっていた
病死だろうか、死んで間もない牛が横たわっていた

 吉沢さんは3月14日の3号機の爆発音を、給餌しながら聞いた。「遠くで重い花火が上がるような音」だった。白い噴煙が上がるのも見た。
 同じ爆発の音と煙を、多くの鳥獣が見たことだろう。春の気配が漂いはじめた山の切れ目から、樹上から。美しい山塊の沢には雪解け水が流れていたが、その音を一瞬さえぎった轟きに天を仰ぎ、尾根を駆けるものたちは足を止め、振り返っただろうか。
 この大地は変わってしまったのだ。あれから1年。人を恐れさせるまで過剰な放射能を身につけた大地は、動物たちの別天地となった。土の上で、土の中で、草木につつまれて、生を営むものたちが棲む。
 その生は死と隣り合わせだ。この日、山あいで1頭の牛が死んでいた。病死なのか、まだ死んで間もないと思われる牛は全身泥だらけで横たわっていた。最初、首がないのかと恐れたが、近づいてみると、牛は自らの背中を舐めるように、首を後ろに折り曲げていて、頭が陰になっていたのだった。

 車で移動中、道端に猿が4、5頭、寄り添って座っていた。窓を開けてカメラを取り出すと、さっと一目散に茂みの奥へ駆け去った。猿を追う目の前には、クモの立派な巣が、雲間から射した光にきらきら輝いている。クモは餌となる虫を待ち、そのクモを蜂や鳥が狙う。
 地中では、ミミズが土を食いつつ掘り進み、セミの幼虫が樹液を吸い、カブトムシの幼虫が腐葉土を食べている。土にも樹木にもセシウムは行きわたっている。
 土に近いところで生きている動物は、当然、被曝量が多くなる。原発事故の約半年後に捕獲されたイノシシの肉から、1キロ当たり1万4600ベクレルの放射性セシウムが検出された。これは現在の食品基準値の約150倍に当たる。その後、これを超える値の捕獲例はないが、福島県の放射線モニタリング調査結果では、イノシシに関しては県全域で軒並み基準値を超える濃度を示している。
 人の住めないところに、動物たちは棲みつき、生きている。やむをえないとはいえ、除染の名のもとに、表土や樹皮を剥ぎ、樹木を伐り、生きた土を埋葬する行為は、さらに動物たちの生存を脅かし、生態系を破壊する。失ったものは大きい。だが、まだ失われざるものもある。
 きらめくクモの巣の彼方に猿の群れを見失った私は、帰途に就いた。なんだか気になって、車の窓から後ろを振り返ったとき、遠景にちらつくものがあった。猿の群れだ。彼らは、めったに車の通らない道路に出てきて車座になり、日向ぼっこをしていた。