鎮守の森の逆さ吊り体験

逆さに揺れながら一生一場所に立ちつづける樹木を思う

(2018年11月2日 掲載)

地震、台風、大雨と、この夏から秋にかけて私の住んでいる地域も災害に見舞われた。とりわけ台風21号の被害は甚大であった。神社の古木が所狭しと倒れた。樹齢百年を超す大木が根こそぎ倒れ伏し、幹が裂かれたように無残に折れている。昼も暗く鬱蒼としていた鎮守の森はスカスカになり、あっけらかんとした空を見通せる。

建物や鳥居はかろうじて無事であった。瓦が何枚か飛びはしたが、樹木が建物を避けて倒れてくれたようで、危機一髪、大木や太い枝が社殿をかすめて横たわっている。

社(やしろ)は難を逃れても、このままでは長い石段を上ってそこまで到達することもおぼつかない。横臥した樹木が道を塞ぎ、倒伏を免れた木にも折れた枝が引っ掛かってぶら下がっている。

先日、地区の役員と神社当番で、道を阻む木を伐り、木の残骸を片づけた。このまま業者に依頼すると何百万円かかることになり、我々の寺社会計ではとてもそんな余裕がないからだ。素人の手に負えない巨木を除いて、できるかぎり自分たちで処分しておきたい。

私の住んでいるところは、三十軒余りの小さな集落であるが、祀るべき神社が三つもあり、それぞれ上の宮さん、中の宮さん、下の宮さんと呼んでいる(上・中は稲荷神社、下は藤代神社)。

中の宮さんから上の宮さんに登る石段付近で木を伐っていたとき、私は自分の不注意で真っ逆さまに落下し、一時は宙づり状態になってしまった。木に食い込んだチェーンソーが挟まったまま抜けなくなり、鋸で伐り進んでから木を倒そうと足で蹴ったと同時につんのめり、倒れ込む木もろとも石垣から転落したのだ。幸い、切り株と立木の間に左の足首が挟まったので、頭から地面に落下することはなかった。三メートル足らずの高さであったが、足首が引っかからなかったら頸か頭の骨が折れていたかもしれない。

やばいっ、と思ったときには何も支えのない空間に飛び込んでいた。足首の激しい痛み。帽子と胸ポケットのスマホが落下するのがわかった。

どうあがいても、ぶらぶら、ゆらゆら揺れるばかり――。

危ない瀬戸際だったが、どうやら助かったようだ。足首の一点でかろうじて大地とつながっている。引っぱり上げられるまでの間、わずかの時間であったが、かつて経験したことのない身体と精神の不安定を味わった。今もゆーらり、ゆーらりと揺れる感覚が残っている。逆さに宙吊りになり、垂れ下がり、吊り下がって、ぐらぐらと自らを揺さぶっている。

足首の傷は捻挫ですみ、日増しに良くなった。が、脇腹の痛みが1週間を過ぎても治まらないので病院で診てもらうと肋骨が折れていた。動けば痛いが、じっとしておれば痛まない。が、動かないわけにはいかない。

人間も動物も、たしかに「動く物」である。生涯をその場所に立ちつづける樹木が何を意識し何を感受して生きているのか、私たちにはわからない。それでも、動かない物の意識、日光や水、寒暖を感受するような何らかの意識はあるだろう。荒れ狂う風に激しく揺すられ、バランスを崩してどっと倒れるとき、軀幹に罅が走り折れる瞬間、痛みか驚きの感覚に類する、何か激烈なるものが全身を駆け巡るのではないか。その場所を背負って立っていた者の背骨が砕けるような、不条理な運命の一撃――。

しかし、これで寿命が尽きたわけではない。根こそぎ倒れた木も幹をへし折られた木も、まだ生きている。漲っていた生気は失われていくが、根源の精気は保たれている。必死に土を掴んでいる根はやがて風雨に洗われて空を掴むしかなくなるだろう。八つ裂きにされたような幹は陽に灼け、雨に濡れながらも、根のあるかぎり立ちつづけるだろう。

倒木は、運べる大きさに玉伐りする。そのとき、飛び散る木屑とともに檜は檜の、杉は杉の、樫は樫の強烈な香を放つ。

倒れ伏している大木のそばで、ひょろ長い木が立ち尽くしている。すっくと立っているというのではなく、ぎこちなさそうに秋の陽を浴びている。立っている場所は同じでも周囲の環境は変化してしまった。陽も当たるかわりに風も受けるだろう。

動かない物は朝夕、立木も倒木も露を帯びる季節になった。剛い樹皮も滑らかな木肌も、しっとり、じっとり、ぐっしょりと濡れては乾く。

一生一場所に留まることを知らない、大地に根を張ることのない私の体のどこかに、逆さ吊りになってぶらぶら揺れている感覚が今も残っている。