息苦しい時代の深呼吸
(2021年2月26掲載)
2020年から2021年へ。年が改まっても新型コロナウイルスによる感染拡大の勢いは衰えず、緊急事態宣言が首都圏に続いて関西圏、愛知、福岡など11都府県に発令された。収束の見込みが立たないどころか、医療崩壊の危機的状況から医療壊滅という言葉も飛び交った。ようやく医療従事者へのワクチン接種が始まったが、マスクと手洗いが頼りという状況に変わりはない。
そのマスクだが、今やどこでも売っていて、いつでも手に入る。昨年の春ごろはマスクが不足し、走り回っても入手できず、入荷見込みの店舗には長蛇の列ができた。私はたまたま福島の原発事故後の取材のために用意したマスクのストックがあったので、再び店頭に並ぶまでなんとか間に合った。そして6月になり、政府が全世帯に配布した布マスクが届いた。評判のよろしくない「アベノマスク」である。
私の周りでは、あんなの役に立たない、税金を使うならもっと他に使い道があるだろう、と人に譲ったり、どこかに仕舞い込んでしまったり、捨ててしまう人までいた。私はともかく着けてみた。たしかに小さすぎる。私のように顔の大きな者は、話をしているうちに鼻の穴や下唇が出現してくる。世論調査で「役に立たなかった」という声が圧倒的多数であったのも頷ける。期待外れというか、もともと期待していなかったから想定内というべきか。しかし、捨てる気にはなれず、マスクを忘れて外出したときのために、車の中で待機してもらうことにした。持ち歩く鞄の中にも予備のマスクを入れているから、わがアベノマスクはずっと出番がなく、車中に眠ったままであった。
アベノマスクに対する不評、悪評は、配布に時間がかかったこと、品質やサイズ、輸入品調達の不透明さにも起因するが、予算計上された466億円という金額の問題も大きい。実際には500億円を超える税金が使われたらしい。それだけの金があれば、年収700万円の医療従事者を7000人以上、1年間雇用でき、約1000万円の人工呼吸器が5000台買えたという。雇用や人工呼吸器に限らず、やはりこの金は逼迫する医療や介護の現場に向けるべきだった。
いま世界中でどれだけのマスクが生産、消費されているのか知らない。市中には色とりどりのマスクが行き交っている。アベノマスクはとっくに過去のものとなった。が、マスクなしには生活が成り立たない日がまだまだ続く。そんなある日、わがアベノマスクにお呼びがかかった。先日、駐車場で車を離れるとき、ポケットにも鞄にもマスクがないことに気づいたのだ。私はアベノマスクに登場願い、それを相棒として用事を済ませた。本屋にも、立ち食いそば屋にもつきあってもらった。マスクをして電車に乗り、歩き、そして考えた。
マスクの着脱にも慣れてきた。うっとうしい、窮屈だという感じも薄れてきた。今後も感染拡大が続くようなら、ひと昔前のサラリーマンのネクタイや女性の化粧のように、外出前にはおのずとマスクに手が伸びるようになるかもしれない。とはいえ無意識にマスク装着というわけにはいかない。速歩程度の軽い運動でも息苦しくなる。呼吸は無意識だが、それを遮る人工のバリアを設けるのは意図的な行為である。
このバリアの防御力は、肉体の内と外を区切る皮膚ほど強くはない。空気を透過させながら飛沫感染を防がねばならない。ウイルスの侵入、排出は拒みきれない。空気を完全に遮断すれば、誕生から死まで続く基本的な生命活動である呼吸が止まってしまう。私たちは空気に生かされている。
コロナウイルスが混入した空気を排除し、清浄な空気を確保しつづけることは不可能だ。空気は形なき共有物である。人間は空気を所有することはできない。誰も空気を私有できない。あえて言うなら、所有は一瞬。肺に酸素を送り届けたかと思えば、二酸化炭素とともに去ってゆく。入れ替わり立ち替わり呼吸とともに送られてくる酸素と出てゆく二酸化炭素。血流が外界と、生命が環境と浸透し合う。空気の贈与なしには、私一個の命さえ、意識さえ私有できない。
呼吸しなければ生きていけない生物は、酸素を植物に負っている。私たちの生命は他の生きものの命に依存している。その意味は、私たちは他の生きものの命を奪って食物としなければ生きていけないというだけでなく、他の生命に依存しなければ呼吸すらもできないということである。
植物は行動することなしに、ただ存在することによって、他の生命を養い、長らえさせる。動くこと、目に見えることだけが行為ではない。こんなにも身近に、欠くことのできない不可視の営みがある。
マスクをして歩いていると、草木を見る目が変わる。コロナウイルスと無縁の緑の生きものたち。無数の植物の息吹。彼ら、彼女らは、なぜ光合成が可能なのか。マスクをして動き回っている私の答えはこうだ。その土地に根を張っているから。根もまた不可視の存在である。土に根ざすことが葉の緑を可能にする。空気には光と水の記憶がある、と思う。
この1年、新型コロナウイルスの感染拡大で逼迫した医療現場を映すテレビ画面には、マスクと防護服に身を包んで奮闘する人たちの姿があった。私の眼にはそれが東電福島第一原発事故後の警戒区域で放れ牛の捕獲や安楽死処分を行った獣医師らの姿に重なる。私たちを脅かすものの正体が目に見えないという恐怖も共通だ。違いは、ウイルスの攻撃で被害を受けるのはもっぱら人間に限られていること。放射性物質が降り注いだ被害は、人に限らず家畜や野生動物などのあらゆる生きもの、田畑や野山の植物、そして土にまで及んでいることである。コロナウイルスの魔の手はそこまでは伸びてこない。人のいないところではマスクなしで呼吸ができる。
アベノマスクの配布を決めた当の首相はすでに辞任した。「人類が新型コロナに打ち勝った証しとして、来年の東京五輪・パラリンピックを完全な形で開催する」と強調したのは、延期決定直後のことだった。その同じ口が2013年の国際オリンピック委員会総会では、原発事故後の汚染水の状況について「アンダーコントロール(制御されている)」と言い切って招致に至った。また同じ口は、東日本大震災と福島第一原発事故からの復興を世界に発信するという「復興五輪」を唱えていた。
しかし、原発構内で日々増えつづける汚染水のタンク、うずたかく積まれた除染土が入ったフレコンバッグの山を見れば、「アンダーコントロール」も「復興」も嘘で固めたお題目にすぎないことがわかる。実際に避難指示が解除されても住民の帰還は遅々として進まず、帰還困難区域が広範囲に残ったままだ。
日本ではコロナ感染者が減少傾向にあるとはいえ、世界の状況は悲惨なものだ。最近の世論調査では、国民の大半が東京五輪・パラリンピックの中止を望んでいる。仮に開催したとしても、人類が新型ウイルスに打ち勝った証しなどとはとても言えない。このウイルスによる世界の死者数は250万人に迫っている(2月26日現在)。
「復興五輪」から「克服五輪」へ。軽々と発せられる嘘が浮遊する国に私たちは住んでいる。コロナウイルスは肺を冒すが、嘘混じりの空気は魂を侵すだろう。
アベノマスクはすでにマスク界の遺物となった。閣僚の間でもほとんど使われなかったようだ。アベ前首相本人はしばらく着けていたが、いつのまにか、他のマスクに変わっていた。自分の責任で国費を投入したのだから、意地でも着けつづけるべきではなかったかと思うが、そんなことはどうでもよい。アベノマスクを問い直すことは、自分の思考や行動を見直すことだ。そのマスクは出来損ないであっても、汚れや邪悪なるものを、身を挺して防ごうとする使命を負っていた。
アベノマスクを装着することは、マスクをすることの違和感を際立たせてくれる。人と人が警戒し合い、マスクが日常となった世界で、アベノマスクはマスクをすることが非日常であった失われた世界を思い起こさせる。
マスクの前にある世界は、目の前に見える世界とは異なる。それは目に見えない世界である。
とりわけアベノマスクは呼吸を意識すること、空気を経験することを求める。
呼吸を想え。空気を忘れるな。呼吸の果てに、息苦しさが、死がある。アベノマスクを見る死者のまなざしを感じないか。
息苦しい時代。生きるためには、ときには深呼吸が必要だ。つかの間の、一瞬の休息。不安を払うために、気分転換のために、忘れるために、眠るために、再び立ち上がるために、闘うために――。
排気ガスと唾液と鼻汁にまみれたマスクは、空気が生まれた世界の美しさを語る。空気には光と水の記憶がある。