湖底に沈む寺 徳山村の信仰と自然の明日は……

2005年の晩秋の一日、岐阜県の旧徳山村を20年ぶりに訪れた。ダムの底に沈む前に、もう一度見ておきたかったからだ。巨大なダムが姿を現した工事現場から見晴るかす紅葉の山々へと、ひんやりした秋の風が吹き渡っていた。

総貯水量で浜名湖の約2倍に相当する日本一の規模を持つ徳山ダム。大規模な工事がほぼ完了し、2006年9月から試験湛水が始まっている。その様子は徳山ダムの公式ウェブサイトで見ることもできる。

かつて仏教雑誌の取材で、ダム工事で消滅する寺や神社を見て回ったことがある。ダムの計画が決まり、住民の離村が始まったころだった。

村に初めて電灯がついたのが1953年のことで、幾重にも山に囲まれていたため、美濃と越前、近江を結ぶ独自の文化や習俗が根づいていた。特に、蓮如の本願寺に吸収される以前の真宗誠照寺派の信仰、寺院ではなくて道場を中心とする真宗初期の形態が色濃く残っていた。徳山村に真宗寺院は一カ寺もなく、毎月そして彼岸のお講に僧が村内の道場を巡り歩いた。夏の本山の「お回り」は、村全体が休日となる最大の年中行事で、他宗派の人々も行列に加わった。

苦しい山村の生活の中で、極楽往生の慰めと現世に生きることの意味を説く、先祖供養の宗教行事であるお回りは、同時に最大の祭りであった。これももう見ることができなくなった。

旧徳山村は1970年の国勢調査の人口は1583人だった。ダムの建設に伴い、水没する集落の村民は揖斐川、本巣、糸貫、北方の4町の5地区に集団移転。466戸すべてが移転して無人となり、1987年4月に藤橋村に編入され、3月31日をもって旧徳山村は廃村となった。曹洞宗の増徳寺は移転したが、「お回り」の風習はなくなった。

そして、2005年11月。旧徳山村を再訪し、ダムの工事現場から県境の冠山峠の近くまで車を走らせた。野面の果てまで紅葉を映し出している日の光に、どこかうつろな輝きを感じずにはいられなかった。

20年前に訪れた増徳寺と裏山の墓地、白山神社は、建物がきれいになくなっていた。そのあたりを歩いてみたが、平地になっていて形跡もない。ダム完成に向けて、工事は進んでいた。写真は貯水池横断橋の工事現場と、廃屋となっている小学校。この近くで車中一泊。明け方の寒さにエンジンをかけながら風の音を聞いた。

朝日に包まれた小学校に足を踏み入れると、窓から廊下に伸びる蔓草だけが、夏の光を浴びているように輝いていた。

本文は、離村が決まったものの、まだ昔ながらの山村生活が残っていた1985年に取材し、水没する村や自然と共に消えゆく仏教信仰を中心にまとめたものである。駆け出しの編集者兼ライターの仕事であるが、私にとっては忘れがたい記録となった。

湖底に沈む寺
徳山村の信仰と自然の明日は……

岐阜県揖斐群徳山村は、美濃の北西部、越前と近江に接する山村である。この地方に日本一の規模のダムが建設されることになり、人々は離村を余儀なくされている。豊かな自然を背景に、独自の文化を育んできた徳山村では、古来、浄土真宗をはじめとする仏教信仰が、日常生活の中に深く浸透している。現在、寺としては曹洞宗の増徳寺があるだけだが、その他に中世の信仰形態を今に伝える、真宗の道場が多く残されている。神社も含めて、これらの施設もいずれ水没する運命にあるが、移転や保存をめぐる問題はどうなっているのだろうか。山村の自然とともにあった人々の信仰と生活は、今後どのようになっていくのだろうか。

現代の秘境にダム建設計画

さる八月二十四・五の両日、徳山村では、「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)」が開催された。今回は第三回目で、昨年同様、さまざまな分野の研究者や、徳山村に興味を持ち愛着を覚える人々が各地から集まってきた。岐阜からバスを乗り継いで三時間近く、夏草の生い茂る山道を上り下りして、やっと着いた頃には、揖斐川上流の山の村は静かに日が暮れようとしていた。しかしミニ学会の会場に一歩足を踏み入れると、開催を明日に控えて、その会場づくりや研究発表の報告集の製本に、忙しく動き回る人々の熱気が伝わってくる。徳山村に現在住んでいる人やここで生まれ育った人はもちろん、遠方からやって来た人も、ほとんど手弁当での参加で、徳山村には人々を惹きつける何か大きなものがあるように思われる。

徳山村は全村約五百戸で、本郷、上開田、下開田、山手、櫨原(はぜはら)、戸入、門入、塚の八つの集落から成る。これらの八地区はそれぞれ言葉も微妙に異なるという。この村に初めて電灯がついたのは昭和二十八年のことであり、自動車道路が全村に通じたのも同じ頃だそうで、その意味では、日本の経済成長のもたらした便利さからは取り残されてきたといえる。そこにダムの建設計画が持ち上がった。以来四世紀半、徳山村はダム問題に揺れ動いてきたが、補償問題も一応まとまり、住民は新しい地に移転しつつある段階である。昨年の秋から離村が始まり、今年中には約七割が村を離れていくとみられている。

徳山ダムは、水資源開発公団が揖斐川上流に建設予定の、日本一の規模をもつ、治水、利水、発電のための多目的ダムである。このダムをめぐる問題がなければ、徳山村は現代の秘境というべき山村の一つにすぎなかった。しかしこの地方は古来、東西の文化の接点であり、越前や近江への交通路でもあった。また幾重にも山に囲まれていたため、独自の文化や習俗が今に根づいている。したがって考古学、歴史学、民俗学、国語学等の研究対象としても、大いにその成果が期待される地方である。

徳山村に現在残っている五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、古文書の記録からも、かつては天台・真言等の密教が盛んであったといわれている。しかしこれらは真宗の強力な布教によって廃れたようで、今は真宗の多くの道場と曹洞宗の増徳寺が存在しているだけである。

真宗誠照寺派の光芒と共に

親鸞は流罪となって越後に向かう途中、上ノ原(鯖江)の豪族、波多野景之に真宗の教えを説いた。景之は熱烈な念仏信者になり、親鸞の弟子となって、親鸞が鯖江を離れる時、弥陀尊像を与えられた。景之はその弥陀尊像を別邸に安置して、車の道場と呼んだが、この道場が後の誠照寺本山となったのである。親鸞は三十年後の六十五歳の時に、第五子益方(後の道性)を景之の養子とした。道性は車の道場で布教に務め、その子如覚の頃には美濃地方にまで及んだ。徳山村一帯の教化もこの時期に始まったと思われる。

誠照寺派の台頭で最も打撃を受けた鯖江の天台宗長泉寺では、『愚暗記』という非難の文章を書いている。その攻撃の内容から、逆に当時の念仏教団の有り様を知ることができる。そこでは親鸞の教えが驚くほど忠実に実践されているのである。「一向念仏ト号シテ浄不浄不嫌、阿弥陀経等ヲモ不読事当世一向念仏在家之男女ヲ聚メツ、愚禿善信ト云フ流人ノ作リタリ和讃ヲウタヒ詠ジテ、同音ニ念仏ヲ唱フル事アリ」「肉食等ノ不浄ヲモ不戒」「衣ハ着ケタレドモ袈裟ヲモ不掛也」「死人ノ追善ニ卒都婆ヲモ不立」これら攻撃するところをみると、真宗の特徴が鮮やかに示されている。地方の一宗団において、親鸞の教えが守られ、実行されていたことがうかがわれるのである。

誠照寺第七代の上人秀応の時代には、『誠照寺史』に「末山加賀・能登・美濃に充実し更に越中に及ぶ」とあるように、誠照寺派は全盛期をむかえる。しかしやがて本願寺に蓮如が出て、その勢力は北陸一帯をおおい、誠照寺派も蓮如に帰依し吸収されていった。現在、美濃地方の誠照寺門徒は、徳山村と根尾村だけである。

衰退の一途を辿る誠照寺を復興したのは、中興上人といわれる第十五代秀かん(言偏に鍼の右)である。徳山地方で現在まで行われていた、村を巡り歩いて読経・説教する「お回り」も、秀かんが教化のために巡回したのが始まりといわれている。今も誠照寺派門徒は、秀かんの命日(元禄四年十一月六日寂)には、「お六日」のお講を勤行している。

道場を中心とした信仰と祭

徳山村では真宗の寺院が一ヵ寺もないので、宗教的な行事は道場と道場坊を中心にして行われてきた。親鸞は一生の間に一寺も建立せず、また面授口訣の門徒たちもそうであったといわれている。その点、徳山村の各道場は真宗初期の形態をそのまま今に伝えているといえる。ただし、現在の道場は、明治以降に再建されたものであり、内部構造はほとんど寺院化しているものも多い。

各道場を管理する人は、道場坊、道場番、道場役などと呼ばれ、朝と夕方には半鐘を鳴らし、おつとめするのが通例である。半鐘の音が聞こえると、老人たちを中心にして道場に参り、道場番と共に勤行することもある。道場から聞こえてくる半鐘の音が、一日の始まりと作業の終わりを告げる。

徳山村では毎月定例のお講の他に、春・秋の彼岸お講、十一月頃の「おとりこし」と呼ばれる報恩講等も行われている。おとりこしは取り越すという意味で、仏事を繰り上げて行い、師匠寺の住職が村を巡り歩く。

とくに夏に行われる誠照寺派本山の巡回は、「お回り」と呼ばれ、徳山村の年中行事の中では最大のものである。このときは誠照寺派門徒ばかりではなく、他宗派の人々も参詣し、行列に加わって、村は休日となる。徳山村の八地区をそれぞれ二泊程度で回り、村人に見送られて、冠峠を越えて帰っていくのである。時には法主自らがお回りに加わることもあるが、使僧(説教僧)が「御書様」を読じゅして、説教、勤行する場合が多い。今の御書様は、「ソレ盛者必衰ノアリサマハ、マノアタリナリ、タレカハノカルヘキ」という言葉で始まる、第二十代秀実上人の消息文である。「サレハ一切衆生無始ヨリコノカタ、生死ノ苦海ニヒサシクシツミ、ウカム瀬ノナキアリサマヲ、コトニ不便ニオホシメシ、建立無上殊勝願、超発希有大弘誓ト、シタヽメタマヒ、大悲ノ願船ヲモテ、生死ノ苦海ニ有情ヲヨホフテノセタマフ、ノリオクレナハタレカワタサン、イソキ本願招喚ノ勅命ニシタカイ、雑行自力ノハカライナク、一心一向ニ、阿弥陀如来、我等カ今度ノ一大事ノ御生、御タスケサフラヘト、タノミタテマツル、コノ一念帰命ノトキ、ヤカテ光明ニ摂取セラレマイラセテ、往生ハ治定ト、大悲ノ願船ニマカセタランミノウヘハ、ナントキニテモ無常ノカセサソヒ次第、涅槃畢竟ノカノキシニイタランコト、ユメユメウタカヒアルヘカラスサフラフ……」

苦しい山村の生活の中で、極楽往生のなぐさめと現世に生きることの意味を説くとともに、先祖供養の宗教行事であるお回りが、同時に、最大の祭であったところに、かつての仏教信仰の一つの形を考えることができる。昔は、出店も並び、総出で踊り明かしたという話を聞いたが、このお回りの行事も今年からはもう見ることができなくなった。

曹洞宗増徳寺も移転に決定

徳山村で唯一の寺院である増徳寺は曹洞宗に属している。徳山家系図に、「徳山七良二郎貞長永享十戊午年五月十五日於濃州赤坂合戦討死高名也、法名寅岩高秀号増徳寺有濃州徳山」とある。また、文明四年(一四七三)四月四日増徳寺と刻字された地蔵尊も残っている。曹洞宗になる以前は天台宗であったともいうが、昭和二十九年の天災で同寺の古文書類が焼失し、その正確な発祥を知ることはできない。ただし、洞寿院の『御住持世代歴住帳』から、曹洞宗増徳寺の開祖が洞寿院の松厳梵梁老師であることは明らかである。洞寿院と徳山氏の菩提寺、増徳寺との結びつきは、領主則秀が柴田勝家とともに、近江賊ヶ岳の合戦で秀吉の軍に敗れ、同国管並村洞寿院に何をのがれたことに始まるようだ。則秀は後に徳川家康に召され、旧領地徳山の旗本となった。だが元禄二年(十六八九)領主重政の時になって、江戸深川の長慶寺を菩提寺と定めたことにより、徳山家と増徳寺の関係は失われるようになった。 

現在の増徳寺は、二十四世梅庵亮魁和尚が亡くなられてから、滋賀県伊香郡余呉町の源昌寺・浅井盛正住職の兼務となっている。洞寿院も同じく余呉町にあり、同地区の曹洞宗の僧侶には徳山の出身者が多いという。余呉と徳山とは、かつて山越えの道で結ばれていたのである。

増徳寺もやはりダムで水没することになるが、寺や檀家は今後どうなるのだろうか。檀家で村会議員の北村津富氏の話では、いろんな意見があったが、結局のところ、岐阜市西秋沢への移転ということに落ち着いたそうである。しかし檀家の中にはこれを機に、兼務ではなく、専従の住職を望む声も多いようだ。

水没する寺院の問題については、曹洞宗宗務庁でもきいてみた。桑原眉尊宗務総長も小田原利仁総務部長も、廃寺や合併となると問題の出てくることも考えられるが、移転の場合は支障ないだろうとのことだった。とはいえ、檀家がみんな同じ地区に移るわけではなく、新居が寺から遠く離れた地にある人も少なくないのである。

神社についても同じようなことがいえる。例えば本郷地区の白山神社では、正月二日に元服式と元服披露宴が行われている。これは男子が十五歳になったのを祝うものだが、その他、豊作祈願の祭や宗教性に富んだ年中行事も、移転とともに姿を消すものが多いと思われる。

山村の生活と文化のゆくえ

今回の徳山村ミニ学会の終わりに、事務局の篠田通弘氏が、「一山村の問題として事務的に処理されることに耐えられない思いをしている。水没する村の人々のさまざまな思いをどうして酌みとることができるか」と言われたが、確かに前途は多難である。

同じ村でも、八つの集落それぞれに、習俗も言葉も暮らしぶりも違うところがあり、それがばらばらに寄り集まって住む形になる。老人たちは話し相手も限られ、家に閉じ込められることになりかねない。徳山の山や川を抜きにしては語れない遊びの世界でも、子供たちは異質なものにぶつかるだろう。一家の生活を支える人たちの悩みはさらに切実だ。はたして安定した生活を確保することができるのだろうか。新天地での就職がままならぬ人は多く、新しい仕事が決まった人も不安は隠せない。

家屋や田畑や樹木のように、ダムによって一度に姿を消すものもある。それとは別に、人々が村を離れて新しい土地で生活することによって、受け継がれたもの、伝えられたものが、少しずつ目に見えないところで消えていく。そこに衣食住から遊びや仕事、歌や習俗に及ぶ、山村の文化の広がりを想定することができる。自然の中にとけ込み、生活に彩りを与え、人生の意味、その喜びや苦しみを証す言葉でもあった仏教の信仰も、その一つであろう。人間が去った後の湖底や湖を囲む山々、その無人の空間は、いわば無情説法の世界になるのかもしれない。

一方では、新しい街や物、そして人との出会いがあるだろう。別れよりも出会いを。だが徳山村を離れざるを得ない人々にとっては、目の前にある世界よりも、背後の広がりの中に、見渡しがたく豊かなものを覚えずにはいられないだろう。もはや残り少なくなった夏、蝉は鳴き、草は茂っていた。

徳山村のわらべ歌

◆守奉公(門入の子守歌)

今年はじめて 守奉公したら
和尚様から きれ三じゃくもらって
帯にゃ短し たすきにゃ長し
これはなんでも 手ぬぐいにそうみょか

◆ここのお菊は(手まり歌)

ここのお菊は なぜもの食わぬ
腹がいたいか 夏やみするか
腹もいとない 夏やみもせぬ
腹にねね子の つぼみができて
生むに生まれず おろすにゃおりず
なんぞ医者殿 薬がないか
薬ゃあれども 合わしてないが
山のさんしょと せきしょとこしょうと
合わせて飲んだら
生まれましょ生まれましょ
生まれた子が 男の子なら
寺へのぼって 学問させて
京へのぼって 手習いさせて
頭をすって ころも着て
西を向いてもなみあみだぶつ
東を向いてもなみあみだぶつ
西も東もごくらくよごくらくよ
ちょっと一貫わたいた

◆はぜ原の子守唄

ねんねんねんねん
ねんねん坊の 寺には
つちうちかねうち タイコうち
はかまがのうて まいれんで
はかまをかりに 行ったらば
あるものないと かさなんだ
腹立ちや腹立ちや
腹も子も 立つものか

◆正月どこ来る

正月どこ来る くるくる山
下来る上来る はよ来い

――月刊「宗教界」162号掲載(1985年11月発行)