植物に意識があったら

3.11以降の「環世界」

(2011年12月31日 掲載)

 大震災の年、2011年もあとわずかで終わる。今年は科学者の語る言葉が、例年よりも多く耳に飛び込んできた。原子力発電とその事故について、津波と防災について、科学を抜きにしては見通しが立たないからだ。
 しかし、それらの科学的言説は、失われた生命や奪われた生活の圧倒的なボリュームに対して、ほとんど質量を持たないように感じられる。科学が無力だと言っているのではない。科学を根拠に語る人の言葉が放射性物質のように飛散して、真偽の判断がつかないほど、私の脳は血の巡りが悪くなっているようなのだ。
 ここらでひとつ、今年いちばん心に残った科学者の言葉を反芻し、乏しい脳の働きをリセットして新年を迎えたいと思う。
 まず、2月に聞いた物理学者の南部陽一郎さんの言葉。
「最近、私の元の学生とメールのやりとりをしていて、こんなことを考えました。動物というのは、まさに動く物ですね。物理の基本的な概念で、力、運動、エネルギーなどは、本質的に我々が実感できるものです。それが非常に役に立つ。もし、植物に意識があったとしても、ニュートン力学は理解できないだろうと思うのです。植物は動けないから、物が動いても、我々のように何か力が働いたことを実感できず、なぜ動けたかが分からないでしょう。また、温度の感覚が全然ない人に対して、温度とは何かを説明しようとしても難しい。我々は温度を実感できるから、熱力学は理解しやすいのです」
 鷲田清一大阪大学総長(現大谷大学教授)との対談で、南部さんはこう語った。毎日新聞社が編集協力している「阪大ニューズレター」で、この対談取材を担当していた私は、これを聞いて胸が高鳴った。数年来、ドッグセラピーの現場を追いながら、動物の感覚、感情についてあれこれ考えてきたからだ。
 南部さんが動物や植物について語るのも意外だった。南部陽一郎さんは、第二次世界大戦後の素粒子物理学の発展を担った理論物理学者で、「対称性の自発的破れ」の仕組みを発見したことにより、2008年にノーベル物理学賞を受賞している。
 彼がここで述べているのは、動物は力、運動、エネルギーなどを感じることができるから力学を理解しやすい、つまり、感覚が知のはたらきにつながっているということである。逆に、動けない植物に意識があったとしても、ニュートン力学は理解できないだろうと。
 南部陽一郎は「知の人」である。1921年、東京府東京市生まれ。23年、関東大震災に遭遇し福井市に転居。52年に渡米し、プリンストン高等研究所、シカゴ大学の研究員などを経て、58年からシカゴ大学教授。70年にアメリカに帰化(市民権取得)。91年、同大学名誉教授。今は1年に数ヵ月、日本に滞在し、大阪大学大学院理学研究科招聘教授を務めている。
 90歳になっても、現役の理論物理学者であり、「私はいつでも考えることが楽しいのです。考え続けていると、時々『分かった』という瞬間があります。私は数学で考えているわけでして、こういうことが解けてきた、答えが出てきた、それが楽しいのです。頭の中で、言葉とともに数式が動いている状態です」と言う。
 知の巨人といってよい人が、「実感」の重要さを語っている。そのことに、私は驚いた。
 私は認知症の人に対するドッグセラピーの現場を取材しながら、認知症やアニマルセラピーの専門家にも話を聞いてきた。動物にも感覚があり、感情がある。だから、アニマルセラピーが成り立つ。認知症の人と犬が寄り添って生きる姿から、私は知の領域が精神のすべてではないことを教えられた。知の世界が壊れても、感覚はなくならず、感情は尽きることなく、感覚・感情の世界で触れあいや深い交流は可能だ。
 感情をともなう出来事はよく記憶される。これは動物が強敵に襲われたとき、恐怖や痛い目に遭った体験の記憶が次の危険を回避するのに必要だから、進化の過程で受け継がれてきたと考えられている。うれしい出来事や楽しかった思い出も強く記憶に残る。ただ一回経験しただけでも記憶に残る。感情がからむと記憶されやすい。記憶と感情はつながっている。
「温度を実感できるから、熱力学は理解しやすい」のと同様に、犬や猫に触ったときの肌ざわりやぬくもりが、失われた記憶を呼び起こす。

 南部さんの言葉が心に残っていた私は、その取材から2ヵ月後に、再び動物や植物と感覚の問題をくっきりと語る言葉を聞いた。著書『生物と無生物のあいだ』で知られる生物学者の福岡伸一さんからだった。神戸女学院大学の広報誌に掲載するために、飯謙学長と福岡さんとの対談記事をまとめた私は、このおもしろい一節を載せたかったが、誌面に余裕がなく、割愛せざるをえなかった。
「生命にとって、感覚というのは、ほとんど生命のすべてだと思います。脳が何かを支配しているという唯脳論的な考え方もありますが、私はその考え方に立っていません。脳は何のためにあるかというと、それは感覚を処理するためにある。感覚を行動に変えるためにある。たとえば、電話局や交換機みたいに、こっちのものを向こうにつないでいるにすぎない。感覚があってはじめて、この世界がつくられているのです」
 ここで福岡さんは、ユクスキュルの『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫)にある「環世界」という言葉を挙げた。同書の訳者あとがきには、従来「環境世界」と訳されてきた「環世界」(ドイツ語のUmwelt)は、客観的な「環境」とはまったく異なるもので、「それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している世界のことである」という説明がある。
 それぞれの生物ごとに、「環世界」は異なってある。人間は自分の感覚で世界をとらえて、それが客観的な「環境」のように思っているが、それぞれの生物には固有の感覚があり、「環世界」がある。
「モンシロチョウにはモンシロチョウの環世界があり、カタツムリにはカタツムリの環世界がある。人間は五感の小さな窓から、世界の一部しか見ていないのです」
 こんな話をした福岡さんに、私は「植物に意識があったとしても、ニュートン力学は理解できないだろう」という南部さんの言葉をどう思うか聞いてみた。
「私は決して植物がニュートン力学を理解できていないとは思いません。南部先生がどうおっしゃるか分かりませんが、やっぱり木の実も熟せば落ちるし、蜜がどっちに垂れるかなど、植物は分かっていると思います。あるいは、太陽の方向に向かうとか、地下に根を張るとか、上下前後の感覚がちゃんとあって、傾斜地だったら、しっかり抵抗するように枝が伸びるじゃないですか。だから、動物のような環世界はもっていないけれど、植物には植物の環世界があると思います」
 これもまた、印象に残る言葉だった。物理学者と生物学者の違いが生命観にあらわれているが、どちらも人間だけの生命を見つめているのではない。
 3.11以降、人間は土とその上に生きる多様な生物に目を注がなければ、生きていけないようになりつつある。
 私は年末に6日間、動物(犬や猫、家畜、野生動物)を訪ねて福島へ行ってきた。何も植えられていない畑がどこまでも広がっていて、収穫されない鈴生りの柿の赤さが目に痛いほどだった。
 私がいま欲しいのは、福島の生物に代わって、その「環世界」を語りうる科学者の言葉だ。