伊藤勝敏著『どっこい 生きてる、ゴミの中−たくましい海の魚たち−』
(2010年7月30日 掲載)
海中カメラマン・伊藤勝敏さんの本『どっこい 生きてる、ゴミの中−たくましい海の魚たち−』(保育社)が、海の日(7月19日)に出版された。
この本の中には、捨てられた空きカンを棲み家にし、中で卵を産んで暮らす魚のカップルが生きている。廃棄されて海底に沈んだ土管やタイヤを隠れ家にしているタコがいる。運動靴の中で気持ちよく昼寝をしているような魚も、空きビンの口から体を出して気配をうかがっている魚も。コンクリートブロックの穴を遊び場にしている幼魚たちも。陸上生活しか知らない私には、見たこともない光景だ。
『伊豆の海』『沖縄の海』『海と親しもう』『龍宮』など多くの著書のある伊藤勝敏さんにとっても、この本は異色の写真集だろう。保育社の「生きもの摩訶ふしぎ図鑑シリーズ」の特別編集版として出版された。本の帯のコピーに「ベテラン海中カメラマンが撮り続けた、海の真実!」とある。かつて伊藤さんが魅せられたという「生物の多彩な姿と幻想的な海中世界」も海の真実なら、人間が捨てたゴミを棲み家とする暮らしぶりも海の真実なのだ。
私は、この本の原稿をまとめるお手伝いをした。「大きな海が、小さな人間に教えてくれること」と題した対談の言葉を整理しただけだが、ずいぶん楽しい仕事だった。対談のお相手は、高校の体育教師として10年間勤めてからスキューバダイビングのインストラクターになり、漁師の生活も経験したことのある藤本浩氏。NPO法人海と自然の体験学習協会理事長として、海の自然や人との触れ合いを通して子どもたちに生き方を見つけてもらう活動を行っている。
伊藤さんが、どうして「彼らの生きている真実の姿を写真にして、多くの人々になんとか伝えたい」と思うに至ったのか。対談の文章を引用しよう。
「空きカンの中や廃タイヤに卵を産みつけ、身を寄せるようにして生きとる。今までだったら、岩の奥に卵を産んだり、岩穴に身を潜めたりしていた魚たちが、空きカンという新しい住まいでちゃんと生きとる。空きカンだけでなく、空きビン、タイヤ、ホース、土管、靴など、人間が捨てたゴミの中で。
人間のしわざに適応して生きていくことが、かれらにとっていいことなのかどうか。ぼくは今、すごい矛盾を感じているのです。
釣りをする人は立派な魚学者といわれている。狙う獲物に合わせて仕掛けを工夫しなければならないし、その魚の暮らしぶりも熟知していないと成果が上がらない。しかし、いかに大物を釣り上げたか、たくさん釣ったかいう話に花が咲き、魚が暮らす海の環境にはあまり関心を示さない。その証拠に、磯釣り場やその近くの海底には多くのカンやビン、ゴミの入ったポリ袋などが散乱している。
人目につかない海の底だからと、ついゴミや不用品を投げ捨ててしまう人間の生活態度に、大きな疑問と不安を感じずにはいられない。海岸に捨てられたゴミの山も、海が荒れると高波にさらわれて海の中へ運ばれていく。
ところが、そんな廃物を魚たちがちょっと休息するのに使ったり、隠れ家として使ったり、卵を産みつけたりしているのを目にするようになった。空きカンやホースを、すまいにしている彼らの姿を見ると、複雑な気持ちになると同時に、生きるためのしたたかな戦略に敬服してしまう。かれらは安全で生活に便利な場所を探すうちに、あちこち転がっている廃物が目にとまり、この廃物利用の習わしを身につけてきたのだろう。しかし、果たしてかれらはこんなすみ家に満足しているのだろうか。
自分たちが釣りをするところにゴミを捨てることがいかにひどい行為であるかは、捨てられた網や釣り糸が覆いかぶさり、からみついて、サンゴが死んでいく光景を見ればわかります。ゴミが波に揺られて海底をあちこち行き来しているのを見れば、それらが海の生きものを困らせるやっかいものであることは想像できます。
海の生物たちが、人間の捨てた廃物までも活用しなければならないのは、本当の自然の姿じゃないと思う。とはいえ、こんな現状を受け止めることも必要で、これからぼくらは、かれらといかに共存していくかということを学ばないと、ともに地球から消え去る運命が待っているかもしれない。海の環境問題を論じるとき、こうした現状をしっかりと見つめたうえで、海の生物たちの生活を守る手だてを考えていかなければならないと思うのです」
日本列島は人間だけのものではない。陸だけではなく、海もやっぱり人間だけのものではないのだ。それは今に始まったことではなく、昔から、先史時代からずっとそうだった。
私がこの思いを強くしたのは、今年初めまで2年半ほどの間、「いまはむかし動物記−古典文学の中の動物たち」というコラムを獣医学雑誌(「クリニック ノート」インターズー発行)に連載し、昔の動物たちの姿を追っていたからだ。『古事記』や『風土記』から『平家物語』あたりまでたどってきた。彼ら動物たちは、何かの縁で人間世界の記録や史料に顔をのぞかせたのだ。
平安時代の宮中で寵愛を受けていた「唐猫」のように、古代エジプトで家畜化された猫が中国を経て8世紀ごろに日本にやって来たというような例外はあるが、多くの動物たちは縄文時代の遺跡から出土する骨と土偶などの土製品にその姿をとどめている。犬、ヤマネコ、馬、牛、鶏、猪、熊、猿、亀など。魚介類は言うまでもない。弥生時代の遺跡から出土する骨や銅鐸の文様からも、鹿、狸、イタチ、鼠、鯨、蛇など多数の動物たちが人間世界の周りに生きていたことがわかる。彼らは今以上に人間の生存を助け、ときには脅かす存在であった。
私は、海よりも山が好き、海水よりも空気に、波よりも風や雨に、魚や貝よりも毛生え動物に親しみを覚える人間だ。が、伊藤さんの写真はこんな人間をも海中の別世界へ誘ってくれる。いや、別世界などではない。海中、海底までも、すでに人間の生活に侵略されている。海中の桃源郷のような、あまりに美しすぎる世界はすでに失われたのかもしれない。
「とくに昔は龍宮城みたいなところがあった。うわーっと思わず声の出るような、絵に描いたような景色。もうだんだんなくなってきたが、30年ほど前にはあった。この目でたしかに見ていた。だけど、写真に納めていなかった。そういう写真を撮り切れていなかったから、なんとか撮りたいという欲望がある。今も目に焼きついた残像がある。沖縄の海で、ノコギリダイが何万匹もいて、それがじーっとぼくの方を向きよる。『さあ撮れよ』と、みんな口を開けたり閉めたりしてる。ほーっ、これや、これやと思う、そういう龍宮城みたいな景色があったのです。今は目にすることもないけれど……」
伊藤さんの写真は、日本列島が陸だけではなく、海もまた人間だけのものではないことを教えてくれる。伊藤さんは1年365日のうちの半分ぐらいは海に潜る生活を、もう30年ほど続けているという。「だから、家族は『アホやな』とあきれています(笑)」
伊藤さんのこれまでの写真集には、生命のふるさとと呼ぶべき、海中のきらきら光る世界が刻印されていた。『どっこい 生きてる、ゴミの中−たくましい海の魚たち−』では、見方を変えればきらりと光るような世界を提示している。伊藤さんは、空の星でもなければ「地上の星」でもない、海中の星を探して今日も潜っている。
最後に、記憶に残る伊藤さんの言葉を引用しておこう。
「海の生きものはここまで来て、ここから先は死ぬか生きるか、どっちかしかあれへん。いつもこうやって死んだり、生きたり、死んだり、生きたりの連続や」
「海の生きものを追いかけているうちに、こうやって死ぬんかなぁ、ああ死んでもええかなぁ、と思うようなときが何度もあった。自分にはもう写真しかない、できてきた写真がすべてや。被写体を追いかけていって、死んでもええなぁと思ってんねん、そのときは。たまたま無事で、ああ、生きとったと感じる」