甘いにおいの秘密 2
服をぬがさなければにおわない
人の気持ちをほのかにくすぐり、心をゆするものがある。この仕かけ巧者の代表に香りがある。女のお化粧の香りも、この道では一流のものだが、これに弱いのは男たちと決まっている。
女も子供も平等に心をゆすられる仕かけ巧者は、食べ物の香りにかぎる。おいしい香り、辛い香り、すっぱい香り、こうばしい香りなど、食べ物が目の前になくても連想できるが、その中でも甘い香りは一級の力があるだろう。甘い香りは食欲をさそうばかりか、心にぬくもりを与えてくれる。
春のお花見のころに出るサクラモチは甘い香りを放って、あの芳香がお花見の雰囲気をぐんとひき立てている。花見時でなくても、あの甘さたっぷりな芳香が鼻にふれると、爛漫の花が咲きほこる景色を浮かばせる。においは過去の記憶をよびさます力までもっている。
人の心をゆり動かせるだけの力をもつにおいの謎をさぐるのもたのしい。もう一度サクラモチを手にしてみよう。しっとりぬれたサクラの葉を指先でそっとつまみ、薄紙をはぐようにめくるとキラリ光った白い肌があらわれる。甘い香りがのどの奥までたっぷりとただよいくるのはこのときで、指ではがしたサクラモチの葉を丸めて捨てるのにちらと気がとがめる。
口の中いっぱいにあふれるあの甘いかおりの主はクマリンという結晶物で、このクマリンはいろんな特性をもっている。クマリンの履歴を知っておいて、お花見時の話題にするのもけっこうおもしろい。
クマリンは白い結晶の形をしている。いつもは人の目にとまるような場所にいないから、身近にあるものでクマリンによく似た性質の結晶でお話しよう。
その結晶はナフタリンなのだ。あの殺虫剤を例にするなんて無粋といわれるのは、ナフタリンの強烈な臭気がいけないからだ。この臭いに鼻をつまんでしばらく無臭にすると、あとの性質はとてもよく似ていてむしろわかりやすい。ナフタリンは結晶の形でありながらたいへん昇華しやすく、空気中に強力に拡散する。タンスの引き出しにしのばせても、内部に昇華して防虫力をあらわす。引き出しをあけたとき、のどの奥までナフタリン臭にやられたつらさは誰にでもある。クマリンも昇華性の強さでは、ナフタリン並みにものすごい。そのすごい昇華性が、サクラモチの甘い芳香で生きている。
花の散ったあと、葉桜のころにその青葉を一枚手にとって鼻に寄せてみても、あの甘いにおいはしない。葉をちぎってみても無臭だ。葉をむしり、もみつぶしてみてもにおわない。葉をもみつぶすと芳香を放つ葉もある。ミツバ、シソ、サンショウ、ゲッケイジュは、葉をもむとさわやかな芳香を放つ。
しかし、サクラの葉が無臭とはなぜなのだろう。それはサクラの葉の中にちょっとした仕かけがしてあるのだ。葉の中のクマリンは裸体のままで入っていないで、きちっと服を着せられている。その服はブドウ糖で、この服を着るとクマリンは無臭になる。服を脱がせる方法は、葉をもんだり熱してみても全然効果がない。服を脱がせる者は酵素だけだ。これでサクラモチの葉の謎が解けてきた。サクラの若葉を塩漬けにして、翌年の春まで一年かけて発酵させると、酵素がブドウ糖の服を徐々に脱がせてクマリンを裸身にしてくれる。花見時に味わうサクラモチの甘い芳香は、昨年の若葉の塩漬けがつかわれていたのだ。
甘くかぐわしい毛虫のフン
ブドウ糖の服をきたクマリンは、無臭でまったく芳香をもたない。この無臭の着服姿のクマリンの名前を、「クマリン配糖体」という。わたしはこれを化学的に合成して確かめてみたが、やはり無臭だった。だからサクラの青葉では甘い芳香を期待できないので、春がくるまで1年間青葉を塩漬けして待つしか手はないのか。
あきらめるのはまだ早い。青葉の時期でも甘い芳香をたのしめる機会があった。
サクラの葉の中にはブドウ糖が多量にふくまれているので、毛虫がつきやすい。公園のサクラ並木は人の手で植えこまれた木だから自主防衛力が弱く、毛虫たちのよい標的にされる。毛虫の猛攻撃で丸坊主になった枯れ木姿のサクラをよく見かける。これがクマリン研究のよい教材になる。
その枯れ木の下には、毛虫の落としたフンが黒い砂のようにたくさんたまっている。その黒砂の上に夕立がさーっと落ちて、黒砂がしっとりぬれた。やがて雨雲の去ったあとに太陽が照りつけて、黒砂をあたためると湯気が立ちはじめる。この湯気がサクラモチの甘い芳香を、あたり一面にただよわす。
その理由は説明がつく。サクラの青葉は毛虫の腹の中で酵素発酵を受け、ブドウ糖の服をすっかり脱がされてしまい、毛虫のフンには、かぐわしいクマリンがたくさんできあがっていた。夕立のあとの太陽もクマリンの昇華性に協力して、公園をサクラモチの芳香の楽園に変えたのだ。
サクラの甘い芳香にふれるたのしみは、もうひとつある。サクラの花の塩漬けを湯飲みについだお茶に一輪浮かせると、お湯でぬくもった花びらが広がり、ほのかに芳香が立ちあがってくる。