医食同源の文化誌 植物工場物語

紅葉の科学と美学1

緑の葉はなぜ赤くなるのだろうか

  日本には秋の紅葉の美しさをたたえる文章やことばが数多い。紅葉の文学作品があるのは、世界で日本文学だけだという人さえいる。紅葉をあらわす単語の種類を英語の辞書の項目でさぐってみると、その乏しさに驚かされる。
  地球の中緯度にある諸国のうちで、日本列島の紅葉が最も美しいといわれているのはなぜだろうか。その理由は、落葉植物の種類と量が他国にくらべて多く、しかも日本列島が山の多い地形であるためで、この二つの特色をもつお国柄は世界中でも異色といえる。秋の紅葉に特殊性がある日本の謎をさぐってみるのはおもしろい。
  紅葉の色を化学の目でみると、主役は赤色のアントシアン、脇役は黄色のカロチノイドと褐色のフラボノイドで、この三者が紅葉の絵の具になっている。
  黄色のカロチノイドは年中働き者で、葉緑素と協同して光合成で糖をつくる優等生だ。新鮮な野菜が色あせたり、未熟な果実が成熟すると緑色から黄色に変色する現象は、葉緑素が分解し脱色してしまって、その下にかくれていたカロチノイドが黄色の顔を見せるからだ。青いカキやミカンが熟して黄色に変色するのがその例である。
  しかし、この黄色への変色にはかなりの日数がかかっているのに、秋の紅葉はある日のこと突然に緑の中から赤色をあらわすのだからおもしろい。昨日まで緑色だった葉が、たった一日でまっ赤に衣替えする。その変身の華麗さに、おもわず人は心をゆすられてしまう。秋のある日に突然あらわれる深紅の天女のような赤色色素のシアニンは粋な伊達者といえる。
  この深紅の天女の出現は、条件さえそろえばどんな木の葉にもどんな草にでもあらわれる。植物の種類を差別しない博愛心ゆたかな乙女なのだ。彼女の博愛心は、あらゆる植物の共有財産である糖から彼女が生まれてくるためだ。シアニンの赤色も、カロチノイドやフラボノイドなどの色素も、みな糖から変身して生まれたものだ。ここで問題はしぼられてくる。なぜ秋のある一日に、突然シアニンが多産されるのか。

葉の中の工場が閉鎖されたら

  赤色の色素名の区別をここでしておこう。アントシアンは赤色色素の全種類を総称する名前で、団体名をあらわす。アントシアンの中のひとつで、紅葉中にあらわれる色素をシアニンという。両者は名前が似ているので気をつけてもらおう。シアニンは個人名で、このあともよく出てくる。
  アントシアンは団体名だから仲間が大勢いて、シソの葉、ナスビ、ブドウなど紫色の果実や、サクラ、ツツジ、バラなど、あまたの赤い草花の色でおなじみだ。その色調も幅広く、桃色から赤、青、紫色まで多彩な大集団をもっていて、アントシアンは一大派閥をつくっている。
  この大派閥仲間からはずれて、秋の紅葉の色素はシアニンだけで単独派なのがおもしろい。シアニンが単独で錦あやなす山をいろどらせるから、その謎にいよいよひかれてしまう。錦あやなす朱、赤、紅のいろどりにシアニンの仲間もおそらく参加しているとおもうが、しかしシアニンに協力している赤色はほかにいない。
  錦あやなす色とよぶほど赤色が多彩になる謎は、葉の中のシアニンの量の多少で色調を微妙に変えてみせるためだ。山の錦色を仕上げるためには、もちろん脇役の黄色や褐色の色素たちもこれに協力している。秋の紅葉が錦色の色合いを見せるのがシアニンの独演なら、いよいよその真実をきわめてみたくなる。
  葉で糖を生産する主役は葉緑素とカロチノイドだった。両者はじつに働き者で、太陽の光と熱を受けると葉の中の工場長である酵素の指令のもとに、さぼることを知らずに糖を生産する。糖といっても葉での主製品はブドウ糖で、これを滞貨させているような不良工場の葉は一枚もない。葉のブドウ糖はどしどし枝、幹、根、花、果実へ送りだされている。まじめ一途な葉緑素やカロチノイドが、工場ストライキなどをやる人間社会を知ったら驚くだろう。
  秋が深まったある晴れた日のこと、その夜は地表に蓄積された熱が輻射放散して気温が極端に下がり、翌日の夜明けには霜がおりた。この日、突然にも葉の工場閉鎖が決まってしまった。閉鎖指令は工場のどこか上部から出され、このひと声で葉のつけ根、つまり葉柄が枝に接続している箇所の全面に遮断膜がはられた。これで葉と枝の間の物質の出し入れは遮断されてしまった。工場の門は閉じられても、葉の内部にいる現場労働者の葉緑素やカロチノイドの諸君は、この指令を聞いていない。現場の仲間に大異変がおきたのはこれからだ。
  霜がおりた翌日は快晴になった。天気がよいから現場の諸君はせっせと糖を生産する。光と熱と二酸化炭素は十分だ。水の供給はどうか、水は夜露でぬれた葉の表面から補給がつくから、糖の生産は順調に進む。しかし遮断膜で閉鎖された葉の中は、糖が滞貨していく。もともと倉庫をもちあわせていない葉の工場で操業していると、糖の滞貨は数日ともたない。
  糖の滞貨で工場にパンクの危機が迫るころ、これを打開する知恵者の酵素があらわれる。ここでブドウ糖をポンと転換して新製品に仕立てたのが、シアニンの赤色色素だ。
  一夜にして緑が赤になるように見える紅葉だが、信号灯のようにすばやくはいかない。葉が赤みはじめてから深紅になるには、普通は一週間近くかかるようだ。緑の葉の中にシアニンが発生する過程を顕微鏡でのぞくと、葉の断面の表皮細胞のすぐ下に、赤い色素がぎっしりつまった細胞の層が一列ならんでいるのが見える。
  ところが、赤色の層は薄いから、葉の色はまだ肉眼には緑色で、赤みの気配は見えない。数日のうちに赤色の層が広がり、厚みを数倍に増やすと葉は深紅に色づいて見えてくる。この赤く見えだすまでが急速だ。それがどれほど早いか、わたしにはおもしろい体験がある。
  ある秋の晴れた日の午後のこと、山道を下っていたとき、その足もとにハラハラと一葉が地上へ舞いおちた。その葉は片はしが赤いが、まだ黄色の部分が多かった。この葉は一面を赤く染めることなく一生をおわったのだ。その不幸をいとおしんで胸のポケットにしまいこみ、落日が迫る山道を急いだ。
  家にもどってからさっきの葉をとりだしてみると、なんと黄色かった一面が赤色に染まっているではないか。ポケットの中でわたしの胸の体温と汗の水分により、シアニン色素の生成が促進されたのか。それはわずか数時間の出来事だった。

自然界の演出がさえる紅葉劇

  緑の葉が紅葉するための条件はつかめたようだ。第一にシアニンを糖から生成する、この指令を出すための酵素をこしらえる仕事だ。これは葉のつけ根に遮断膜をつくる指令を出すのとおなじで、気温をぐんと下げてやればよい。下げ具合は霜がおりるのが目安になる。第二は糖の生産力を促進させる仕事で、光と熱をどしどし与えてやればよい。やがて葉はまっ赤に染まっていくだろう。これだけのことを自然界はうまく演出している。
  秋の日本の山は、西の大陸から移動性の高気圧がやってくると、快晴の日中は高温になる。その日の夜半は昼間の熱が輻射放熱して、明け方には冷えこみ初霜がおりる。これは地上の温度が摂氏〇度以下になった証拠で、霜のついた地表の空気は四度以下になっている。ここが大切なポイントだろう。葉の光合成のいとなみは四度以下になると全面ストップしてしまい、葉柄に遮断膜をはる指令のボタン押しは、この温度が決め手になっているようだ。
  こころみで、鉢植の木を冷蔵庫に入れて紅葉させようとおもっても、このボタン押しの温度までは下がらない。四度以下に鉢植の木を冷やす何らかの工夫がいる。
  自然の山はどうだろう。尾根筋より谷筋のほうが夜間に強く冷えこむから、谷の紅葉は色濃くさえる。尾根筋の赤色を谷筋とくらべると、その鮮明さは尾根筋が負ける。その尾根筋でも、岩の間にはさまれた草は赤色があざやかだ。それは日中に岩が熱くやけて、夜間はこれが輻射放熱して冷えるためで、岩の間は谷筋とおなじ環境になっている。
  石ころだらけの林道でも、地表の石は秋の陽光でやけるように熱くなる。その地表にへばりついて葉を広げた車前草は、まわりで風にそよぐ雑草たちよりも赤く色づく。これも岩の間の草の場合とおなじように説明ができる。
  山に初霜がおりて、葉の中にシアニンを生産する酵素が生まれたら、紅葉の種つけはできたことになる。葉の色はまだ緑色で赤色の気配はないが、内部でシアニンの製造はもうはじまっている。やがて数日たつと緑の葉は、突然赤く燃えあがる。その時期は、第二回目の霜がおりるときだ。大陸からの移動性高気圧は、五、六日か一週間の間をあけてやってきて、山にあたたかい快晴の日がくると、いよいよ錦あやなして燃えだす。
  そこまでくると、もう科学の目だけでは語りつくせない。錦の山に美の世界が広がってゆくとき、心に紅葉の文学が芽ばえるのはこのころなのか。