医食同源の文化誌 七色の紅葉

紅葉の科学と美学2

赤い帯が秋の山をおりていく

 モミジの赤色には種類が多い。「色々」と書く副詞はあれやこれや、さまざまの表現で物事が多い意味をあらわすが、その元はモミジの色の多彩さが祖先かもしれない。
 赤色をあらわすことばに緋色、紅色、朱色、茜色、丹色、苺色、珊瑚色などがある。これらは赤色に黄味が入ったり青色がかかって、色に個性があるから独自の名前ができた。赤色はこれだけの仲間をもつが、英語でこれに対応する単語はみつからない。ことばの種類が多いのは、そのことばをつかう豊かな文化があるからだ。日本の紅葉に美学があるのは、これだけでも理解しやすい。
 秋のモミジは七色に紅葉するが、その葉を赤色に染める色素はシアニンただひとつだけだ。サクラ、ハゼ、ウルシ、ナナカマド、ケヤキの紅葉でも、シアニンが葉を赤色に染める。多彩に紅葉するあらゆる草や木の赤色がすべてシアニンである単純さをおもうと、紅葉の世界がただひとつの化学物質で統一されている自然のいとなみがおもしろい。
 モミジが赤の色を七色に微妙に変化させるのは、シアニンの量による濃淡と、シアニンにまじって少量のカロチノイドの黄色やフラボノイドの褐色が協力するからだろう。
 秋の紅葉は物理学も利用していた。緑色の葉が紅葉に色づくためのボタン押しの鍵は、摂氏四度の温度にある。四度の気温は地上数メートルにある観測箱で測定されるが、そのとき地上には初霜がおりている。初霜から一週間ほど過ぎるとつぎの寒波がきて、二回目の霜がおりる。このころが紅葉の最盛期になり、燃えるような紅葉の秋たけなわの世界に変わる。紅葉開始のボタン押しの張本人は初霜だが、これを観測箱の四度で間接的に知ることになる。
  山に初霜がおりるのは、山頂からはじまり日をおって下へおりていく。紅葉も山頂に初霜がくるころからはじまり、中腹から山麓へと山肌が赤色の帯をおろしてゆく。赤い帯が山をおりていくスピードは、百メートルを三、四日くらいだろうか。
  多彩な色の中に、紅葉がとくにあざやかで目をひく木がある。尾根筋ではナナカマドの群落が、深紅のジュウタンをしいたように目をたのしませる。山のふもとの谷間にはモミジが赤く燃えて、晩秋まで紅葉の協奏曲が流れる。

秋の最後をかざる紅葉の王者モミジ

  赤色の色素名の区別をここでしておこう。アントシアンは赤色色素の全種類を総称する名前で、団体名をあらわす。アントシアンの中のひとつで、紅葉中にあらわれる色素をシアニンという。両者は名前が似ているので気をつけてもらおう。シアニンは個人名で、このあともよく出てくる。
  アントシアンは団体名だから仲間が大勢いて、シソの葉、ナスビ、ブドウなど紫色の果実や、サクラ、ツツジ、バラなど、あまたの赤い草花の色でおなじみだ。その色調も幅広く、桃色から赤、青、紫色まで多彩な大集団をもっていて、アントシアンは一大派閥をつくっている。
  この大派閥仲間からはずれて、秋の紅葉の色素はシアニンだけで単独派なのがおもしろい。シアニンが単独で錦あやなす山をいろどらせるから、その謎にいよいよひかれてしまう。錦あやなす朱、赤、紅のいろどりにシアニンの仲間もおそらく参加しているとおもうが、しかしシアニンに協力している赤色はほかにいない。
  錦あやなす色とよぶほど赤色が多彩になる謎は、葉の中のシアニンの量の多少で色調を微妙に変えてみせるためだ。山の錦色を仕上げるためには、もちろん脇役の黄色や褐色の色素たちもこれに協力している。秋の紅葉が錦色の色合いを見せるのがシアニンの独演なら、いよいよその真実をきわめてみたくなる。
  葉で糖を生産する主役は葉緑素とカロチノイドだった。両者はじつに働き者で、太陽の光と熱を受けると葉の中の工場長である酵素の指令のもとに、さぼることを知らずに糖を生産する。糖といっても葉での主製品はブドウ糖で、これを滞貨させているような不良工場の葉は一枚もない。葉のブドウ糖はどしどし枝、幹、根、花、果実へ送りだされている。まじめ一途な葉緑素やカロチノイドが、工場ストライキなどをやる人間社会を知ったら驚くだろう。
  秋が深まったある晴れた日のこと、その夜は地表に蓄積された熱が輻射放散して気温が極端に下がり、翌日の夜明けには霜がおりた。この日、突然にも葉の工場閉鎖が決まってしまった。閉鎖指令は工場のどこか上部から出され、このひと声で葉のつけ根、つまり葉柄が枝に接続している箇所の全面に遮断膜がはられた。これで葉と枝の間の物質の出し入れは遮断されてしまった。工場の門は閉じられても、葉の内部にいる現場労働者の葉緑素やカロチノイドの諸君は、この指令を聞いていない。現場の仲間に大異変がおきたのはこれからだ。
  霜がおりた翌日は快晴になった。天気がよいから現場の諸君はせっせと糖を生産する。光と熱と二酸化炭素は十分だ。水の供給はどうか、水は夜露でぬれた葉の表面から補給がつくから、糖の生産は順調に進む。しかし遮断膜で閉鎖された葉の中は、糖が滞貨していく。もともと倉庫をもちあわせていない葉の工場で操業していると、糖の滞貨は数日ともたない。
  糖の滞貨で工場にパンクの危機が迫るころ、これを打開する知恵者の酵素があらわれる。ここでブドウ糖をポンと転換して新製品に仕立てたのが、シアニンの赤色色素だ。
  一夜にして緑が赤になるように見える紅葉だが、信号灯のようにすばやくはいかない。葉が赤みはじめてから深紅になるには、普通は一週間近くかかるようだ。緑の葉の中にシアニンが発生する過程を顕微鏡でのぞくと、葉の断面の表皮細胞のすぐ下に、赤い色素がぎっしりつまった細胞の層が一列ならんでいるのが見える。
  ところが、赤色の層は薄いから、葉の色はまだ肉眼には緑色で、赤みの気配は見えない。数日のうちに赤色の層が広がり、厚みを数倍に増やすと葉は深紅に色づいて見えてくる。この赤く見えだすまでが急速だ。それがどれほど早いか、わたしにはおもしろい体験がある。
  ある秋の晴れた日の午後のこと、山道を下っていたとき、その足もとにハラハラと一葉が地上へ舞いおちた。その葉は片はしが赤いが、まだ黄色の部分が多かった。この葉は一面を赤く染めることなく一生をおわったのだ。その不幸をいとおしんで胸のポケットにしまいこみ、落日が迫る山道を急いだ。
  家にもどってからさっきの葉をとりだしてみると、なんと黄色かった一面が赤色に染まっているではないか。ポケットの中でわたしの胸の体温と汗の水分により、シアニン色素の生成が促進されたのか。それはわずか数時間の出来事だった。

自然界の演出がさえる紅葉劇

 秋の紅葉の謎は少し解けたが、問題はまだある。かつて夏山に登ったとき、山道でひといき休憩を入れて汗をふきながら見あげたトチノキの大木に、一枚だけが深紅に染まった葉があった。この葉にシアニンの生産がはじまったのはなぜだろう。
 天狗のウチワのように大きな形のトチノキの葉は、葉柄も太くて長い。この葉柄が何か不慮の衝撃で折れまがったのだろう。折れたために内部の導管がつまって水の輸送が途絶したのだ。水の補給をたたれても、夏の盛りだから日中は糖を生合成するので、糖は葉の中に滞貨する。糖の在庫の山がシアニンへ変身したのだろう。真夏の山の中、深紅の折り紙の一枚がトチノキの枝にひっかかっているような風景が、今も目に残っている。
 夏が去り、ようやく初秋がやってくるころ、秋景色を見直していると、いちはやく葉を赤く染めはじめる木がいる。ケヤキやサクラはその代表者たちだ。そのサクラの紅葉がおわり、枯れ葉が秋風に舞うころに、ウルシ、ハゼノキが赤色に染まりだす。ウルシ、ハゼノキの赤 色は、ひときわあざやかだ。秋の紅葉の鮮明さのベストスリーは、ナナカマド、ウルシ、モミジで異論はないだろう。
 紅葉が鮮明になるための条件は、一日の気温の最高と最低の格差が大きいほどよい。この温度格差が最大になるのは、谷間がいちばん条件がよい。モミジはこの谷間にくらすから、紅葉の王者に君臨するわけだ。
 平野でも野草や稲穂が、ごくほのかに紅葉を見せることがある。稲穂の風景では、都会周辺よりも大気のきれいな田舎の稲穂の方が赤色が濃くなる。都市周辺は、都市が排出する熱で夜間の冷えこみがわるく、一日の温度の格差が少ないから稲穂の色はくすんでさえない。
 植物の種類により、紅葉に色づく時期の早いものと遅いものがある。赤く色づきをはじめるボタン押しをする鍵は、初霜だけがもっているのではないし、一日の温度格差や葉の中のブドウ糖量の多少でも十分な説明はできない。サクラとおなじころに紅葉するケヤキの葉は、ブドウ糖が少ないから毛虫も寄りつかない。紅葉の開始のボタンを押す鍵は、植物たちのもつ未知の個性の中にあるのだろう。シアニンの赤色は、どのような手順であらわれるのだろうか。
 葉の中にある糖はブドウ糖が普通で、どんな植物でもブドウ糖をもっている。ほかにガラクトース、マンノースも少しはあるが、グルコースの量が最大だ。
 ひとつだけ異色な植物がいて気になることがある。晩秋の最後をいろどるのはモミジで、この紅葉が秋の最終をかざる。このモミジの葉の中にはブドウ糖がまったくない。そのかわりガラクトースがたくさんある。ガラクトースがブドウ糖へ構造変換してからシアニンになると考えると、モミジの紅葉は、色素の生産で工程がひとつ遅れることになる。この辺から紅葉の色の謎を解く糸口がみつかるだろうか。